アーネスト・トンプソン・シートン
Ernest Thompson Seton

1860年8月14日〜1946年10月23日

 イギリスの港町サウス・シールズで生まれる。

 父は海運業を営んでいたが、船の沈没や海賊の襲撃などの不幸が重なり、事業に失敗。シートンが5歳のときにカナダのオンタリオ州リンゼーに移住した。

 幼いシートンはカナダの大自然にふれて感動し、その後の人生の方向が決まった。父は丸太小屋つきの森を手に入れ、家族は開拓農場のくらしをおくるが、うまくいかず4年後、農場を隣家に売ってトロントへ移り住む。

キングバード 
 5歳
 家族はトロントの都会生活を歓迎したが、シートンは自然の楽園を失ったことに苦悩する。そんななかでトロントのドン川の谷の森や、オンタリオ湖に流れでる河口の沼沢地でさまざまな生きものに出会い元気を取り戻していく。高校に入学したシートンは、動物学者になる夢をもち猛勉強をする。トップの成績をおさめるが体をこわし、母のすすめに従いリンゼーで療養する。かつて過ごした開拓農場に戻ったシートンは、みるみる元気になり、キャンプ生活を通じて森の暮らしと技(ウッドクラフト)を身につけていく。
リンゼーのキャンプ 
 14歳
少年とオオヤマネコ

 トロントに戻って父の強い希望で、絵の勉強を始める。高校卒業後、昼間は肖像画スタジオの助手として働き、夜はオンタリオ美術学校に通った。

 19歳でオンタリオ美術協会最優秀賞金メダルを授与され、父の薦めでイギリスのロイヤル・アカデミーに入学するため、ロンドンに向かう。

1879年スケッチ 
 自画像(19歳)
 ロンドンのアパートで貧しいひとり暮らしをはじめたシートン。翌年課題作品が合格、ロイヤル・アカデミーで七年間奨学金を受けられる、わずか六人の特別奨学生のひとりに選ばれる。ロンドン動物園、大英博物館付属図書館に無料のパスで通えるようになったシートンは、図書館でアメリカの偉大なナチュラリストの本に出会う。アメリカの自然が、ヨーロッパの自然(一度切り払われた後に育った森で多くの大型動物が絶滅)とはまるで違うことを知り、アメリカに戻りたいとホームシックになる。貧困から栄養失調になったこともあり、母に呼び戻されてトロントに帰る。
21歳
 帰郷後、体が回復したシートンは、マニトバ州カーベリーで自営農場をつくっていた兄アーサーの元に行く。ナチュラリストの友人、ウィリアム・ブロディのすすめで生涯にわたる日記をつけはじめたのもこのときからだった。動物を観察し、スケッチをし、開拓者としての生活をおくる。
シロフクロウと丸太小屋
 シートンは自営農場の場所を求めて土地探しの旅に出かけ、23歳のとき、サスカチュワン州のダック山のふもとにその土地を見つける。サンドヒルでシカの足跡を追っているとき先住民族クリー族のチャスカと出会い、森の暮らしの技と考え方を学ぶ。シートン自身が「黄金時代」とよぶ日々だった。
スタッグ 
 チャスカ

  絵で暮らしをたてるためにニューヨークへ行き、仕事を探して印刷会社で働く。その絵が『センチュリー誌』美術部長の目にとまり、スミソニアン博物館の鳥類学者や、動物学者クリントン・メリアムに才能を認められ、論文用の絵の依頼を受ける。『センチュリー事典』の挿絵、1000枚を頼まれたのもこの頃。

  26歳のとき、最初の論文『マニトバの哺乳類』を発表。その後、鳥類の論文を書くうちに、伝えたいことが論文では書けないことに気づく。

  マニトバで研究した動物のくらしを元に「セント・ニコラス」誌にライチョウの科学読み物『カンジキをはいたドラマー』を発表。

『マニトバの哺乳類』
 シートンは美術学校時代の恩師のすすめもあって芸術家を目指し、30歳でパリへ旅立つ。その年はロンドンへ行って動物園でスケッチを繰り返し、12月にパリに戻る。ジュリアン・アカデミーに学んで、翌年「眠れるオオカミ」がサロンに入選。さらに翌年、自信作「オオカミの勝利」を出品するが落選。オオカミ(自然)を追い込んだ人間の暴力を描いた意図が、審査員には理解してもらえなかった。
オオカミの勝利

 「いまの私はノルウェーでヤシの木を育てようとしているようなもの。私は私でアメリカのマツを大きくすればいいのだ」と悟ったシートンは、アメリカへ戻る。ニューヨークに戻る船中、パリで知り合った女友だちから、彼女の父親が経営する牧場に出没する賢いオオカミ、ロボの話を聞く。

 翌年ロボ退治の依頼を受け、ニューメキシコ州のクレイトンに行く。

 ロボとの知恵比べは、その後のシートンの人生を変えることになった。

 ロボを死に追いつめながら、ロボに共感していくシートン。

 ニューヨークに戻ったシートンは、自分の経験と観察、人々に伝えられたロボの話をまとめた『オオカミ王 ロボ』を一気に書きあげた。

 「スクリブナーズ」誌に掲載された『オオカミ王 ロボ』は、アメリカだけでなく、世界で注目され絶賛された。レオ・トルストイは「いままで読んだ最高のオオカミ物語」と語った。

ロボ
ロボとブランカの足跡
日記(1897年8月)

 36歳のとき、初めての単行本『美術のための動物の解剖学』を出版。

 この年6月にグレイスと結婚。ニューヨークに住む。

 グレイスはシートンとともに過ごした西部の体験を『はじめての西部』『ニムロデ(猟師)の妻』として出版。のちに旅行作家として活躍。

 38歳のとき、『わたしが知っている野生動物』(「オオカミ王 ロボ」「ワタオウサギの ラグ」「わたしの愛犬 ビンゴ」「カラスの シルバースポット」「大草原のウマ ペイサー」など)を出版。

 この本は大きな反響をよび、次々に版を重ねていった。多くの国々で翻訳され、シートンは全米各地に講演によばれるようになった。

ラグ 
 ペイサー

 40歳で、コネティカット州コスコブに移り住む。

 子どもたちから、シートンの動物物語の主人公が出る劇をやりたいと頼まれ、『野生動物の劇』を出版。

 翌年、『狩られるものの生活』(「小グマの ジョニー」「野生のヒツジ クラッグ」など)を出版。

 42歳、シートンは地元の少年たちと先住民族のくらしの知恵をモデルとする「ウッドクラフト・インディアンズ」の活動をはじめる。これがのちのボーイスカウト運動のさきがけとなる。

 翌年、これらの野外活動を、物語を読みながら学べる『ふたりの小さなインディアン』を出版。

ティピー 
 ムースホーン
シートンの絵文字

 44歳、『クマ王 モナーク』を出版。娘のアンが生まれる。アンは後に作家となり数多くの歴史小説を発表した。

 45歳、『野生動物の英雄』(「下町のネコ キティ」「アライグマの ワイアッチャ」など)を出版。執筆活動と講演活動を続ける。

 47歳のとき、7か月にわたる、北極平原へのカヌーの旅にでる。この探検記録は、2年後『北極平原』として出版された。

 49歳でコネティカット州グリニッジに移り住む。ウッドクラフト活動は、ウッドクラフト・リーグ(同盟)として各地に広がっていった。北米大陸で約20万人の子どもたちが参加し、アメリカ、カナダのほかに、イギリス、チェコスロバキア、ポーランド、ロシア、フランス、ベルギーなどに次々にウッドクラフト・リーグが創設されていった。

 1910年、シートン50歳のときにボーイスカウト・オブ・アメリカが創設。初代団長を務めた。

モナーク

 52歳、『ウッドクラフトとインディアンの伝承』を出版。

 当時ヨーロッパの先進国、そしてアメリカはアジア、アフリカで植民地をめぐっての勢力争いを展開。イギリスで生まれたボーイスカウト運動は、子どもたちにも国家意識を植えつける教育活動になっていた。子どもに制服を着せ、国家に忠誠を尽くす小さな軍人にしたてる方針に反対のシートンは、ボーイスカウト・オブ・アメリカの中でしだいに孤立し、55歳のときカナダ国籍を理由に除籍される。落胆したシートンだが、ウッドクラフト運動の再建に力を入れる。

 58歳のとき、先住民族の身ぶり言語、約1700語を絵にした『サイントーク』を出版。人間にとって共通の言語、身ぶり言語についての最初の研究書となる。

 『野生動物の生きかた』を出版。『狩猟獣の生活』の執筆にとりかかる。

59歳

 63歳のとき、娘のアンが結婚。シートンはこれを機にアメリカ東部を離れる決意をする。ニューメキシコ州サンタフェに土地を探す。

 1925〜1928年にわたって、自らが最高傑作とよぶ科学書『狩猟獣の生活』全4巻を出版。

 66歳(1926年)、ボーイスカウト・オブ・アメリカより、シルバー・バッファロー賞を授与され、ボーイスカウトに復帰する。

『狩猟獣の生活』とびら
 70歳でニューメキシコ州サンタフェに移り住む。2500エーカーの土地を購入し、自然と先住民族の文化を研究し、ウッドクラフト運動の指導者を育てる大学をつくることを目的に、シートン・ヴィレッジ建設に意欲をもやす。72歳のときに「インディアンの知恵の大学」を開校する。この地に永住することを決め、アメリカ国籍を取得。75歳のとき、グレイスと離婚。『狩猟獣の生活』をまとめるとき秘書としてシートンを支えてきたジュリアと再婚する。ジュリアはのちに先住民族の研究をまとめた『インディアン・コスチューム』を出版。
シートン・ヴィレッジの戸口 
 儀式のときの衣装
身ぶり言語でバッファローを示す78歳のシートン

 1939年、第二次世界大戦が勃発。アメリカの参戦によって人手不足となり「インディアンの知恵の大学」は閉鎖された。80歳で自叙伝『アーチスト・ナチュラリストの足跡』を出版。85歳で最後の単行本『サンターナ フランスの英雄犬』を出版。その中で「動物の心がわかる人とは、動物に共感する能力と、勇気、やさしさ、それに理解の能力とを合わせもった人のことです。暴力にうったえずに、動物に自分の考えを伝えることができる人のことです」とのべている。

 1946年8月の誕生日に、ニューメキシコ大学で最後となった講演をし、同年10月サンタフェのシートン・ヴィレッジで老衰のため86歳の生涯をとじた。

日記
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1860年
0歳
8月14日、イギリスの港町、サウス・シールズに生まれる。
1866年
6歳
家族と共にカナダに移住。オンタリオ州リンゼーで開拓農場のくらしをはじめる。
1870年
10歳
トロントに移住。トロント郊外のドン川そばの森に、はじめての丸太小屋をつくる。
1875年
15歳
トロントの高校へ入学。動物学者になる夢をもつ。体をこわし、療養のためにリンゼーの森のなかで先住民族に学ぶキャンプ生活をして健康を取り戻す。
1876年
16歳
トロントに戻り、父の強い希望で絵の勉強をはじめる。
1878年
18歳
昼間は肖像画家の助手としてはたらき、オンタリオ美術学校の夜学に通う。
1879年
19歳
オンタリオ美術協会最優秀賞金メダルを授与される。イギリスのロイヤル・アカデミーに入学するため、ロンドンに向かう。
1880年
20歳
ロイヤル・アカデミーで課題作品が合格。7年間の奨学金を受ける。
ロンドン動物園で動物のスケッチに励み、大英博物館付属図書館で、ジョン・オーデュボン、ラルフ・エマソン、ヘンリー・ソローなどアメリカのナチュラリストの本に出会う。
1881年
21歳
ホームシックと貧困生活により体をこわし、トロントに帰る。 友人のすすめで日記をつけ始める。
1882年
22歳
マニトバ州カーベリーで兄アーサーの農場を手伝い、開拓者としての暮らしを送る。
1883年
23歳
サスカチュワン州のダック山のふもとに自営農場を登録。 絵で暮らしをたてるためにニューヨークに行き、印刷会社で働く。
1884年
24歳
絵が鳥類学者、動物学者に評価され、研究論文用の絵をたのまれる。
サスカチュワンの農場に丸太小屋を建て、愛犬ビンゴと暮らす。シートン自身が「黄金時代」と呼ぶ日々。
先住民族クリー族のチャスカと出会い、森の暮らしの技と考え方を学ぶ。
1885年
25歳
『センチュリー辞典』の挿絵、1000枚をたのまれる。
1886年
26歳
最初の論文『マニトバの哺乳類(Mammals Of Manitoba)』を書く。
1887年
27歳
『セント・ニコラス』誌に『カンジキをはいたドラマー』というライチョウの物語を発表。
1890年
30歳
パリへ行き、ジュリアン・アカデミーで絵を学ぶ。
1891年
31歳
『眠れるオオカミ』をグランド・サロンに出品、入選する。
1892年
32歳
『オオカミの勝利』をグランド・サロンに出品したが、落選。
アメリカに戻る船中で、パリで知り合った女性から、ニューメキシコで牛を襲うかしこいオオカミ、ロボの話をきく。
1893年
33歳
ロボを退治する依頼を受け、ニューメキシコのクレイトンに行く。
1894年
34歳
ロボとの出会いで、動物の本能は人間の理性をこえる事を知り、衝撃をうける。
以後、動物を殺さないと心に誓い、野生の精神を伝えるために物語を書き、『スクリブナーズ』誌に『オオカミ王ロボ』を発表。世界で注目される。
1896年
36歳
はじめての単行本『美術のための動物解剖学(Studies in the Art Anatomy of Animals)』を出版。
6月、ニューヨークでグレイスと結婚。
1898年
38歳
『わたしが知っている野生動物(Wild Animals I Have Known)』を出版。評判を呼び、多くの国で翻訳された。
1899年
39歳
サンドヒルのシカ スタッグ(The Trail of The Sandhill Stag)』を出版。
1900年
40歳
コネティカット州コスコブに移り住む。愛読者の子供たちのために、『野生動物の劇(The Wild Animal Play For Children)』を出版。
1901年
41歳
『狩られるものの生活(Lives of the Hunted)』を出版。
1902年
42歳
地元の少年たちと、先住民族の暮らしの知恵をモデルとする「ウッドクラフト・インディアンズ」の活動をはじめる。
1903年
43歳
ふたりの小さなインディアン(Two Little Savages)』を出版。
1904年
44歳
クマ王 モナーク(Monarch, The Big Bear of Tallac)』を出版。
娘、アンが生まれる。
1905年
45歳
『野生動物の英雄(Animal Heroes)』を出版。
1907年
47歳
7ヶ月にわたる、北極平原へのカヌーの旅にでる。
1908年
48歳
コネティカット州グリニッジに移り住む。
ウッドクラフト活動を各地に広げ、ウッドクラフト・リーグと呼ばれた。
1909年
49歳
銀ギツネのドミノ(Biography of A Silver Fox)』、『北部の動物の生活史(Life-Histories of Northern Animals)』を出版。
1910年
50歳
ボーイスカウト・オブ・アメリカが創設され、初代団長を務める(1915年まで)。
1911年
51歳
探検記『北極平原(The Arctic Prairies)』『森のロルフ(Rolf in The Woods)』を出版。
1912年
52歳
『ウッドクラフトとインディアンの伝承(The Book of Woodcraft and Indian Lore)』を出版。
チェコスロバキアにウッドクラフト・リーグが創設。
1915年
55歳
カナダ国籍を理由に、ボーイスカウト・オブ・アメリカから除籍される。
1916年
56歳
イギリス、ベルギー、フランス、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ロシア、アイルランド、ユーゴスラビア,カナダで、ウッドクラフト・リーグが創設、活動が世界に広がる。 『野生動物の生きかた(Wild Animal Ways)』を出版。
1918年
58歳
『サイントーク(Sign Talk of the Indians)』を出版。
狩猟獣の生活(Lives of Game Animals)』の執筆にとりかかる。
1922年
62歳
リスのバナーテイル(Bannertail: The Story of A Gray Squirrel)』を出版。
1923年
63歳
娘のアンが結婚。 シートンは人生のひとつの章が終わったと書き、アメリカ東部からはなれる決意をする。
1925年
65歳
1928年までにわたり、自らが「最高傑作」とよぶ科学書『狩猟獣の生活(Lives of Game Animals)』全4巻を出版。
1926年
66歳
ボーイスカウト・オブ・アメリカより、シルバー・バッファロー賞を授与され、ボーイスカウトに復帰する。
1927年
67歳
狩猟獣の生活(Lives of Game Animals)』により、ジョン・バローズ・メダルを受賞。
1928年
68歳
狩猟獣の生活(Lives of Game Animals)』により、アメリカ合衆国科学アカデミーのダニエル・ジロー・エリオット・メダルを受賞。
1930年
70歳
ニューメキシコ州、サンタフェに移り住む。 アメリカ国籍を取得。
1932年
72歳
自らのデザインによる、自然と北米先住民族の文化を学ぶ場所、シートン・ヴィレッジが完成。
アメリカ大学協会の認定を受けた「インディアンの知恵の大学」が開かれる。
1935年
75歳
グレイスと離婚。ジュリアと結婚する。
1936年
76歳
イギリスをはじめ、ヨーロッパ各地で講演し、ウッドクラフト・リーグを訪れる。
1938年
78歳
養女ベウラ(後にディーと改名)が家族にくわわる。
1939年
79歳
『バッファローの風(Buffalo Wind)』をシートン・ヴィレッジ印刷所より出版。
1940年
80歳
自叙伝『アーチスト・ナチュラリストの足あと(Trail of an Artist-Naturalist: The Autobiography of Ernest Thompson Seton)』を出版。
1945年
85歳
最後の単行本『サンターナ フランスの英雄犬(Santanna, The Hero Dog of France)』を出版。
1946年
86歳
8月14日の誕生日に、ニューメキシコ大学で最後になった講演をする。
10月23日、86歳の生涯をとじる。
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